本がその居場所を移す過程でもっとも幸せな時期が書店の棚に挿されているあいだなのだ。本が読者の手にわたってしまえば、一度読まれたあとはしまいこまれてしまうかもしれない。書店の棚は、たとへそれが薄暗い古本屋の片隅であったとしても多数の人に向けられた晴れの舞台である。
また書店という空間が持つ独特の雰囲気が、本の内容以上の付加価値を与えることも少なくない。たとえ同じ本であっても「いい」本屋に並んでいる本は、よその本屋の本とはちがうものなのだ。本が好きでお気に入りの書店ができると、不思議な体験をするようになる。書棚の方から、本から送られる目配せ。何千という本の山のなかでも一発で目にとまる不思議。そうした体験をすると、この本は自分のためだけに存在しているのだという思い込みを否定できなくなり、本という物質に心を奪われることも増えてくる。夜の飲み屋で男女の思惑が錯綜するのとまったく同様に、白昼の書店では本と人が熱い視線を交わしているのだ。
(本が置かれている場所 SD2000 8月号の中の 無署名の記事)
本と読者と書店に関するロマンチックな思考に、しばし、手をとめ、雑誌の山に囲まれた自分の位置を確認する。