ヴァヴナルグは云った。公園という公園には、必ず遠く離れて、愉快な人々や閑散な人々の、思い遣りのない視線をさけた、失敗した野心、不幸な発明家、流産した名誉、砕かれた心の、その中で嵐の最後の溜息がなお怒りつづけている、すべての狂おしい心の、主として訪ねてゆく小径があると。そしてその陰深い隠れ家こそ、人生の跛行者たちの会合所であると。
詩人及び哲学者は、彼らの飽くことを知らぬ探索の眼を、好んでこのような場所に注ぐ。そこには確かに牧草がある。そしてもしも、彼らが訪れるのを屑しとしない場所があるとすれば、それは今や私が暗示したように、まさに富める者たちの歓楽場に外なるまい。その所詮空虚なる喧噪は、彼らを誘う何ものももっていない。反対に彼らは、すべての弱きもの、敗北せるもの、悲しめるもの、寄辺なきものに向かって、抗しがたく自らの牽引されるのを感ずるのである。
経験のある眼は決して欺かれはしない。それは直ちに、硬直った顔、または打萎れた顔に、落ちこんで艶のない、または最後の努力に輝いた眼に、深い数多くの皺に、かくも緩慢な、またはかくも苛立たしい歩みぶりに、裏切られた恋愛の、認められない犠牲の、酬いられない努力の、沈黙と謙抑とを以て耐えられた飢えと寒さの、数限りもない物語を読みとるのである。
……。
ボードレール。パリの憂鬱。寡婦 三好達治訳。
なぜか、Le Spleen de Parisが身にしみる夏であります。しかし、手元に三好達治訳しかないのは残念です。阿部良雄訳が欲しい。タイトルはやっぱり「パリの憂愁」のほうがええね。