生活はすっかりあみの目に巻き込まれ、身動きできなくなっている。一九一三年の世界と社会はそんなふうに見えた。一種の経済的宿命論が支配していて、それが各個人に、抵抗しようがしまいが、一定の機能をおしつけ、ひいては個人の利害関係とその性格をも左右している。教会はとるに足りない「救済事業」、文学は安全弁としてしか通用しない。どのようにしてこんな状態になったにせよ、この状態が現にあり、誰もそれから逃れることができない。そこから起こる結果は、ひょっとして戦争にでもなれば、よろこばしいものではない。
しかし明けても暮れてもいちばん気がかりな問題は、こうだ。この状態を止揚できるほどの、強力で、とりわけ生きた勢力が、どこにあるだろうか。もしないとすれば、どのようにしてこの状況から脱け出せるのか。人間の分別は、教えこまれて、順応させられるかもしれない。しかし人間の心は、その動きがあてにできるほどに、まるめこめるものだろうか。
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金クラで買った、フーゴ・バル「時代からの逃走 ダダ創立者の日記」土肥美夫・近藤公一共訳。。
今の時代と似ている、と感じるのはわたしだけでしょうか?というより、今とは別の、他の時代にもきっと似た時代があって、これと同じような状況論が書かれていたかも知れない。ほとんど何も変わらないのに、その時代その時代のそれぞれが少しは変わったのだと思い込んでいるだけ……、なのかもしれません。それぞれの同じような時代の中で。もちろん、ガジイ ベリ ビムバのバル氏も。いやいや、変わらないのは時代ではなく、宇宙の屑である我々人間