例えばいま目の前、組合の倉庫で本を片付けながら見ている星田保育園の光景。古い平屋建ての教室の入り口で、中に入れられるのを拒んで、泣きわめきながら必死に抵抗しているのは、4歳のわたしである。
1972年。その映像に、言葉を、感傷的なものでなく、そっけない、数字の羅列を、重ねてみる。無声のイメージにあわせて、せんきゅうひゃくななじゅうにねん、という響きを重ねる。すると、ぼやけた映像の焦点が少しずつあいはじめ、ただの数字であるはずのものの中に感情のようなものが感じられるようになる。
(……と思うのは、わたしだけでしょうか?)。
せんきゅうひゃくきゅうじゅうさんねん。埼玉県大宮市の外れの、何処だか知らない駅前のパチンコ屋でマジカルベンハーを打っているわたし。
せんきゅうひゃくはちじゅうよねん。山陰のうねうねした山道を海へと、父の運転する車の助手席に座っているわたし。
身体の中にある光景ひとつひとつに年代を与えてゆく。この果てしのない作業。
ポリフォニックな、数字の、響き。