なにか、非常に多くのものを失くしたとも云えるし、はじめからなにもなかったとも云える。焼けた家の前に立って、なんども失くしたものを数えようとするけれど、うまくいかない。
ーーそうではないと、思う。そうだ、数えたって、しょうがない。あるはない。ないはある。たとえば目の前にほんとうになんにもない空間が広がっていたとしても、わたしはあり、わたしの中には多くの美しいもの美しくないものが確かに、ある。たとえばわたしが目の前の多くの美しいもの美しくないものに触れることが出来たとしても、それはほんとうは、ない。もちろん、触れるわたしも、ない。
ーーいつか、それが未来なのか、あるいはずっと昔の話なのか、わからない。ここではないどこか、夢の中、あるいはうつつに、いつの時かわからない夕暮れ、猫町の散歩者よろしくわたしは場所でない場所、時間ではない時間を歩く。坂の商店街の不思議なにぎわいを抜けて古く傾きかけた町並みを歩く。ここはどこであろうか?おそらく知っているにちがいない、おそらく知らないにちがいない。歩くにつれて記憶の中の景色が目の前に広がってゆき、歩くべき道を教えられているような、そんな感じ夕暮れの路地から路地へと、少しも迷うことなく、わたしはその道を辿ってゆく。年老いた兄弟が魚を焼いている前を通って、少しも売れない荒物屋の前を通って、次のタバコ屋の角を左に曲がると、右手に、今にも崩れそうな4軒長屋、その隣は春さんのビル、その隣は崩れそうなコンクリ造りの陶芸の先生の家、それで、そうその隣、藍で染め抜いた暖簾を軒先にかけた小さな町家、あれはいつかの火事でなくなってしまった服と古本を売る素敵なお店、この世にたった二日だけ存在した玄さんのお店、そうだ、この無目的に思われる散歩のほんとうの目的はこれに違いない、あのお店に入って、中で無心でミシンを踏んでいる家の人に、ずいぶんと昔、あるいはずっと未来にいい忘れていたことを伝えたかったからに違いない。ほんとうに云うべきことがあれば、失われたと思えるものもいつでも目の前に見ることが出来る。わたしは暖簾をくぐって中へ入る。入って右側に小さなこけしたちと有名でない日本画家の鵞鳥の絵の掛け軸、左側には出来たばかりの秋冬の暖かそうな服、ちょっと目を上げると木版の甍富士、トンボのお目目の大阪の引き札、古いガラスの扉の本棚を開けると……。
わたしはお酒を飲んで居眠りばかりしているけれども、ここはほんとうに良いお店だと思う。スパシーボ。スパシーボ。