ひさびさに、「悪霊」を読む。今日は、キリーロフとGの自殺問答。痛みと、神がなければ、だいたいの思慮ある人は、だいたいにおいて死んでしまうでしょうか?
「人が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし……それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」とG。
「それが卑劣なんです。そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」とキリーロフ。
自分で自分を殺すことができてこそ人間は最高の自由を手に入れることができる……のでしょうか?わたしたちの教育はそのように教えませんが、自分を殺す勇気のあるものは世界の欺瞞を見破ったものなのでしょうか?
「明らかに狂人だ」と、Gは心の中で決めるのですが、誰かから学び当然のように感じているその知識や感覚がかならずしも正しいとは限らないわけです。むしろ、まったく正しくないことをさも当然のように正しい面して暮らしている人間をなにかが物陰から見ていて三日月のように口をひろげて笑っているかもしれないのです。
それにしても、憎むにせよ愛するにせよ、希望にせよ絶望にせよ、ドストエフスキーの登場人物ほどの激しさを、生身の人間が持つことがほんとうにあるのでしょうかね。時代と国が違うとはいえ、わたしたちの心の動きは何かに飼いならされたもののようにおとなしく、薄味です。
※文中のセリフ等は新潮文庫の江川卓訳からそのまま借用しております。