おそまきながら、西村賢太「苦役列車」を読む。テレビ等でちらりと見た事のある風貌、言動から想像していたのとは違う、非常に慎重でおとなしい、読みやすい文章ーー。冒頭「パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ」きちんと押さえ込んで便器に放尿するのに似て、どんなダメ人間の暮らしを描こうと「文学」であるようにきちんと文章が制御されている、その、当たり前さに、少々がっかりする。できれば、「朝勃ちした硬い竿」を制御せずに、小便でも精液でも好きなだけまき散らすような文章を読んでみたかったのですが、日下部と違ってしょせんは人足でしかない貫太=作者が、社会からは少々逸脱した人物であっても、「文学」からは逸脱できない、というよりもより意識的に「文学」であろうとする思いが滲んでいるように思えて、この読みやすくすっきり奇麗な文章も結局は、自分が逸脱してしまっている社会、へのコンプレックスの裏返しではないかと、少々いじましい気がするのです。その、ちゃんとした文章で芥川賞作家になるのは、難しい試験を通って学校に行ったり、企業に就職するのとあまりかわらないのではないか?書く為に書くのではなく、「文学」である為に書くのは、生きてゆく為に出来るだけいい会社に就職したいという気持ちとほとんどだいたい一緒であるような気がします。そうして、そのようにして、毎年多くの作家が世に輩出されてゆくわけですが……。
もっと滅茶苦茶に壊れたものが読んでみたい。壊れてなおかつ美しいものがあるような気がしてならないのです。
ウトウトしてる間に夕暮れ。いつでも、昼寝しすぎたあとは、何かにおいてけぼりにされたようで、寂しい。